没個性の日常がこの国を支配するとしたら
私事ながら、筆者は近々山陰を離れることになった。
持病の治療や求職活動をするのに、知り合いがいなくて職も少ないこの環境はあまりにも不利だと考えたからだ。
やり残したことはないか、と思い、一通り周辺の観光もして満足したのが10月の終わり。
11月は持病もあって午前中は寝て過ごし、夕方からのアルバイトをこなすみたいな日々が続いた。
そんな今日、名物の蕎麦を食べてブラブラ自転車を漕いでいて、自分に物凄く悲しくなった出来事があった。
観光名所のお堀の遊覧船や、お城の公園の紅葉は全く視界に入ってこないのに、
全国チェーンの飲食店やリサイクルショップ、コンビニ、ショッピングモールのような、没個性的なお店ばかりに引き寄せれる自分がいた。
思えば、2年弱の山陰生活の中で、自分が所謂「観光名所」だったり「地元の名店」であったりする場所に惹き付けられる時間よりも、
全国チェーンやロードサイドに奪われる時間の方が長かった。
お城の何倍もイオンにいた。
蕎麦の何倍もマックでご飯を食べた。
前に何回か書いているけど、筆者はそのような没個性をかつては否定する側の人間だったからこそ、
自分の変貌に本当に驚いている。
そして、地方に住んでいる人間は、だんだんとそういう価値観になっていくこと、侵食されていくこと。それは「意思を持った」移住者ではない、「仕事を求めて」地方に移住した若者であったり、都会から地方に戻ってきた若者からは、本当に感じられることだ。
県外の観光名所よりイオンなのだ。
地元の珈琲の名店よりもコメダなのだ。
名産の蕎麦よりも二郎系ラーメンなのだ。
そして、かつての日本人が営んだ生活の跡、脱け殻の感傷的な様子に、「エモい」という便利な言葉をつけた。
筆者はエモいって言葉を使うこと自体に否定的ではないが、
かつての日本人だったら何ともなく見過ごしていた共有の感覚が、今の若者は遠巻きに他人事として眺めながら、非日常のひとつとしてそれを言語化するしか術がなくなっているのだ。
筆者にとっては、県外で観光名所を見たり、お城の公園で花見をしたり、蕎麦を食べたり、有名な純喫茶に行くことは「非日常」の「エモい」ことだ。日常とは切り離されている。
地方に住んでて感じるようになったこの「没個性の日常」が、少なくとも自分を取り巻いている。そうだとしたら、
観光地に住んでも、非日常は非日常のまま、「エモさ」として残っていくのだろう。
だとしたら、地元のお店に目もくれず、チェーン店に固執する姿も、そうなのかな、ということだ。