人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり

慶應卒、山陰在住、一人暮らしニートの戯れ言

余所者の拒絶は、むしろ東京の方が激しいという話

盆にはまだ早いけれど、先日一週間ほど東京に帰省していた。

東京の友人たちや実家の家族と話をする中で、

地方創生の文脈でよく聞かれる「田舎では余所者に対して地元の人が排他的になる」という構図は、案外と東京でも当てはまるのではないか、というように感じるエピソードがあったので紹介したい。

 

わたしの生まれは東京でも世田谷区という、いわゆる世間でいうと高級住宅地とされるエリアで、母親は生まれも育ちも代々世田谷のお嬢様だ。

もっとも、彼女には、世田谷がおしゃれエリアとして成金や勘違いスイーツ(笑)が住み着く前から世田谷で暮らしてたってプライドがものすごくあるようで、

私が会話の流れの中で「東京に住む人は恵まれてる」みたいなことを言った瞬間に何故かファビョりはじめた。

曰く、「世田谷の町が、地方から上がってきた人に汚されてる」「私たちの暮らしがあったところに土足で踏み込んできて、飲食店でゴミを撒き散らし、地元の本屋を潰し、生活を変えてしまっている」という強い言葉で嘆いていた。

 

私にはこれが、地方でよくその土地のドンみたいな人が言う、「オレたちの町が、チェーン店で、都会から来たよそ者で、別のものに変えられてしまってる」って言葉と、猛烈に重なるのだ。

チェーン店や、外部からの侵入者で、町が破壊されていくのは、東京でも地方でも同じなのだ。

 

もう一つエピソードがある。

東京で路線バスに乗る機会が3回ほどあったのだが、

たまたまかもしれないが、そのバスは客が空いた席に着席するのを待たずに発進した。

田舎のバスに乗っていると、車内の転倒を防ぐ観点だろうが、どんなに遅延しようと必ず全員座ったりつかまったのを確認してから運転手さんはバスを動かすし、客も止まるまでは席を立たないので、

それがカルチャーショックだってことをTwitterで呟いたところ、これも世田谷に長い方に突っ込まれた。

「たまたま乗ったバスを東京の総意として見ないで欲しい」その言葉には、地方から出てきた人がたまたま目にした東京の姿は真の東京じゃない、というような、見下した嫌悪感が滲んでいた。

ちょうど都会の人が地方の車窓を見かけて呟いた「これだから田舎は」という言葉への地方民の激しい反発を見るようだった。

 

これらの話から見えることは、都会の人間は、田舎から上がってきて都会のコミュニティへと入り込もうとしている人間に対して、とても排他的で、嫌悪感をもっている、というケースがあり得ることだ。

よく地方創生の民は「田舎の人間は都会から来て自分達のコミュニティに入ろうとする人間に冷たい」という対立構造を作ろうとするが、

これは都会田舎が対になってるのではなく、両方とも、単純に「自分の心地よい内輪の中に入ってくる外部の者を受け入れられない」ということに尽きるんじゃないか、ってことだ。

 

あ、前半にちょっと書いた、「チェーン店が壊しているもの」は都会にも田舎にもありそう、って気づきは、また考えがまとまったら書きます。